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「教師っぽくない」は、褒め言葉

これをほめ言葉と捉える人は、あまり多くないでしょう。
 それだけ、多くの教師が、自分なりの「教師っぽさ」というものをもち、そこに向かっているということかもしれません。
 では、教師っぽさとは、どういうものでしょうか。一度、考えてみてください。
  ・宿題やノートの提出状況を細かくチェック。出ていなければ、出るまで催促。
  ・ちょっとでも気になることがあると大声で指導。始まるとそれが長い。
  ・子どもになめられてはいけないと、似つかわしい威厳(怖さ)を装う。
 
すみません。私は、これらの「教師っぽさ」を否定します。

こんなことをしたことがあるでしょうか。これらは、私が実際にしたことです。
・雨の日の下校指導時、私だけピンク色の傘をさして現れる。静かにしないといけないという約束があるので、子どもたちはしゃべれないけど、何かつっこみたい感じ。
・子どもたちが廊下を走っていると、多くの先生は「走りません」「歩きます」という指導言。私もこれらは言うが、時には「歩こう~、歩こう~♪」と「さんぽ」を歌って聞かせる。
・雪の降った日。校庭で雪合戦。1時間もやると、雪の下の土が見え、汚い感じ。「よしっ、近くの公園に行こう。行く目的は、『冬の季節を感じようだ!』」と言って出かけて、さらに雪で遊ぶ。

 これらがいい指導かと言われれば、決して認められるものではないでしょう。教師集団が皆このような状態だったら、指導が入っていきません。「一人ぐらいこんな先生がいてもいいのではないか」という感じで進めています。

堀裕嗣先生が「先生らしい自分をめざすな。自分らしい先生をめざせ」と著書で述べています。私もこの言葉に共感しています。そのためには教師自身が「自分らしさとは何か」ということをつきつめる必要があるのです。
そして、子どもたちが魅かれるのは目の前の先生の「自分らしさ」のところではないでしょうか。子どもたちに「個性を出せ。個性的であれ」と指導するのなら、教師が率先して個性を出すべきだと考えます。

いわゆる「教師らしい教師」を否定しているのではなりません。「教師っぽくない教師」は、「教師らしい教師」がしっかりと存在しているからこそ、意味があるのです。そして、時には「教師らしい」指導もする必要があります。それができてこその「教師っぽくない教師」なのです。

「教師っぽくない」とは、「人間臭さ」を子どもたちに伝わるレベルで表している教師なのです。学校に「人間」を戻しましょう。そのためには、教師一人ひとりが自分自身を知り、追い求めることです。



(別稿)
「教師っぽくない」は、褒め言葉
読者は、どのような教師像をおもちだろうか。
 ・規律を重んじる教師    ・新しいことを上から一方的に教える教師
 ・児童生徒の模範となる教師

 上記3つは、私は持ち合わせていないと断言できる。なぜなら、私がもっていないが、周りの多くの教師が考えているだろう3点を記したからである。
 しかし、以上の3つやそれに付随する事項を、教師像としてもっているかたは、かなりの数いるのではないかと勝手に推察する。
 もちろん、間違いではない。教師として必要なことであることは私も否定しない。もちあわせていた方がよいものであろう。

 私はもっていない、というよりも、もつことすら考えていないのである。
 周りの多くの先生がこのような教師像をもっている。私はそれを利用しているのだ。
 「みんながそう考えているのなら、私ひとりぐらいはそうしなくてもいいっしょ。」

 上記3つについて、一つ考えることがある。
 子どもの方を向いてやっているのならよいが、
教師の見栄や世間体、ふわっとした教師像にすり寄るためのものになっていないだろうか。

 基本的に、教師を志す人は、「いい人」である。
そして真面目である。さらに、「よいことをしたい」「子どもによい影響を与えられる教師でありたい」と考えているはずである。

では、「子どもによい影響を与えられる教師」というのは、上記3つができている教師なのだろうか。
わたしはここに懐疑の目をもつ。
そして、教師としての生きづらさを感じてしまう。
規律を重んじたがために、子どもががんじがらめになり、主体的に育たない。教師にとっては、「教えやすい」「指導しやすい」人を量産しているだけでないか。
教師にとって「教えやすい」などということは、どうでもいいことだ。これはプロの姿勢ではない。
プロなら、どんな子どもでも合わせられるチューニング能力をもたなければならない。

人間を育てているのだ。ロボットを育てているのではない。ましては、あなたしか操縦できないロボットなど、無価値だ。

主体的に動けるようにし、そこから学びを得るその「枠」(システム)を用意するのが、私の考える教師像である。この像をもって、日々子どもたちと過ごしている。
そして、「模範」などということは微塵も思っていない。私の姿勢からどう学ぼうと(学ばなくても)、私には興味のないことである。子どもたちに委ねている。「模範」になることが教師の資質として求められるなら、教壇を降りよう。

 私みたいな人がたくさんいたら、それは困りものだろう。おそらく学校は機能しない。周りの多くの教師がいるから、私の存在価値があるのだと、自分に言い聞かせている。
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Teru3128

Author:Teru3128
小学校、特別支援学級の担任です。
今年度で教職14年目。
教師修業をぼちぼちと進んでいます。

本年度は、特別支援学級における「道徳授業」を追究する一年間です。
失敗から見えてくるものを大切に、授業実践の楽しさに浸っています。

そして、今年は有田実践からも学び広めていきます。

心を耕し、技術を磨いていきます。
よろしくおねがいします。

ありがとうございます!
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