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教師修業としての「書くこと」一考

書くことを常態化させることが教師修業では不可欠である。
どれだけ思っていても、それを言葉で表現しなければ、ほとんど意味を為さない。「やろうと思っていたんだけど」という子どもの言い訳が意味を為さないことは、日頃の生活から承知済みだろう。
創造的な仕事をする者は、書くことを怠ってはいけない。形にすることが大切である。形にすれば、評価ができる。評価によって、よりよいものになる。
書くことによって、思考が整理される。考えているレベルでは、ぐちゃぐちゃである(整っていないから整理する必要があるのだが)。
 実践は、やりっぱなしでは意味が薄くなる。実践記録としてまとめることだ。これには労力を伴う。しなしながら、実践記録のまとめによって、教師力は高められる。また、実践記録が書けるということは、教師のアイデンティティを確認することにもつながる。
教師が教師であるためには、子どもと日々を過ごす時間が不可欠である。子どもと過ごす時間を流されるままにするのか、そこに杭を打てるかが分かれ道である。子どもたちと過ごす時間を意識的なものにすることである。それこそプロとしての姿勢である。そして、意識的なものにするために、書き残すということができる。
意識しなければ書くことなどできない。書くことなどいくらでもあるはずなのだ。子どもとの関わり全てが、書けることであるはずだ。しかし、いざ書こうとなるとできない。思い出せないのである。子どもたちとの時間をどれだけ無意識的に垂れ流しにしていたか、痛切に感じる。
「書けない」ということを認識することから、書く修業は始まるだろう。この意味では、書けないということは成長のチャンスと言えるかもしれない。書けないからといって、あきらめてはいけない。
書くことも意識してみることだ。まずは、書くべき文書の一つ一つを大切にすることだ。いきなり学級通信を出すということは難しいだろう。まずは、提出すべき文書をていねいに書くことを修業の第一歩としてあげたい。校務分掌の提案文書や、電話を受け取ったメモ書き、連絡帳への記入、指導案など、どの教師も書くべきときはあるのだ。書くことを避けることはできない。だとしたら、書くことに意識的になるべきだ。そのことが無意味になることはない。
書くことを進めるために、美辞麗句や専門用語を排除することから始めたい。とにかく分かりやすく書くことだ。一文を短くすると、テンポが出てくる。これが、読みやすさを生み出すのだ。
書くことと読むことは結びつきが強い。たくさん書くためには、たくさん読むことが必要だと考える。分かりやすい文章や気になる表現のストックを増やすことだ。読むことで言葉を自分のものにしていくことでは、書くことにもつながる。
そして、教師は子どもたちに作文や観察記録・日記などを書かせる存在である。子どもたちに書かせておいて、教師である自分は何も書かないでは、子どもたちはついてこないだろう。教師こそ子ども以上に学ぶことが大切である。そして、学ぶ姿勢を子どもたちに示し続けるのだ。このことによる教育効果ほど大きなものはない。目に見えないものではあるが、それは決定的なものであると考える。
書く修業を意図的に設けることで、教師のさらなる成長につながる。学級通信を発行したり、実践記録を残したりすることだ。書いたものは、見てもらい指導を仰ぐことが必要だ。書きっぱなしではその効果は薄い。

書き続ける教師を目指そう。書くことこそ大変な教師修業はない。しかし、それをくぐり抜けてしか、教師の成長はあり得ない。そして、教師の成長が子どもの成長に結びつくのだ。教師修業は、自分自身のためでもあり、それが子どもたちのためにもなるのだ。
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プロフィール

Teru3128

Author:Teru3128
小学校、特別支援学級の担任です。
今年度で教職14年目。
教師修業をぼちぼちと進んでいます。

本年度は、特別支援学級における「道徳授業」を追究する一年間です。
失敗から見えてくるものを大切に、授業実践の楽しさに浸っています。

そして、今年は有田実践からも学び広めていきます。

心を耕し、技術を磨いていきます。
よろしくおねがいします。

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