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石川晋さんの著書を読んで思い出したこと

石川晋さんの著書『学校でしなやかに生きるということ』読了。
いろいろなことが頭によぎった。

その2,3を記す。

公立学校で生きるということ

 私は、幼稚園以外は公立の小学校・中学校・高等学校、そして国立の教育大と過ごしてきた。
 その中で、思い出として頭に浮かぶのは、小・中学校時代のものである。
 大学時代は現在とのつながりもあり、思い出という感覚が薄い。そして、高校時代については、思い出と呼べるものがほとんどない。
 別にそれぞれの時代を特に変わった過ごし方をしていないと思うのだが、この違いはなんだろうかと考えることがある。
 その時に、答えの一つかなと思い当たるのが、「小学校・中学校は、いろいろな奴がいたもんなぁ」というものである。
 高校・大学は受験によって選別される。学力的には近い者たちが集うわけだ。大学については、教員志望という将来についても近寄った者が隣の席で学んでいるという生活だ。
 それと違って、公立の小中学校は、ただ「ご近所で生活している」ということだけで、同じ教室で生活をする。そこにはお金持ちもいれば、片親もいる。特別支援学級も整備されていなかった時代なので、支援を要する児童(雑に言えば、ちょっとこ変わった子)も、一緒にいたのだ。異質の塊なのだ。
 異質だからこそ、受け入れがたいところも当然出てくる。いじめられることもあるし、相手を替えていじめることもある。ケンカの約束などという不可思議なことをすることもあった。
 しかし、そこで認め合えると生涯の友となったり、初恋が芽生えたり、人生の歩みの中で常に気に留める存在となっていったりするのも、この異質の塊の中で起きたりするのだ。
 これこそが公立小中学校の存在意義なのだ。私は、この9年間を過ごすということは、人格形成に大きな影響を及ぼすのではないかとさえ考えている。

高校・大学・就職と均一化されていく。それは異質な者を排除しているといってもよいのかもしれない。効率という観点では、同質のほうが扱いやすいだろう。
しかし、広い世界に出れば出るほど、そこは自分とは異質な者しかいないということに気づかされる。そして、高校・大学・就職と均一化されたと思っていたところも実は、自分と同じ人はだれ一人としていないということを認識する。そこで生きるということは、小中学校時代の状況と近いのかもしれない。
公立の小中学校で生活するということは、石川晋さんも著書で言う「ぼくらの国の、ここから十年の縮図みたいなものが小学校中学校の中にある」ということとつながるのかもしれない。
 
 もう一つは、「(支援学級在籍の児童生徒は)この地域で生活し、大人になっていく可能性が高い。学校を出て後、彼らを支えてくれるのは教師ではない。彼らの同級生なんだよ。だから、交流授業で互いに認め合うことが必要なんだよ。」という話を、特別支援学級担任になった際の最初の主任からいただいた。私が常に心がけている言葉のひとつである。
 公立においては、小学校でのつながりが中学校までつながる。これは良い意味でも悪い意味でも事実である。そして、このことは大人になり、地域社会に出たときまで残るものである。だとしたら、より良い方向に進めたい。それには、互いを知り認め合うことしかない。これができるのが、学校である。
学校だからこそ、集団で共に生活をするからこそ、互いの良さを認め合うことができ、衝突してもそれをケアし合うこともできるのだ。このことが、特別支援学級在籍生徒の将来の生活を支えるものとなるのだ。だからこそ教師は、支援学級在籍生徒だけでなく、その周りの生徒も育てていく必要があるのだ。
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プロフィール

Teru3128

Author:Teru3128
小学校、特別支援学級の担任です。
今年度で教職14年目。
教師修業をぼちぼちと進んでいます。

本年度は、特別支援学級における「道徳授業」を追究する一年間です。
失敗から見えてくるものを大切に、授業実践の楽しさに浸っています。

そして、今年は有田実践からも学び広めていきます。

心を耕し、技術を磨いていきます。
よろしくおねがいします。

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